ぬまだいようすいを知る

土地改良区の役割やくわり

− 18世紀せいきから21世紀せいきへ・ぬまだいようすいめぐみ永遠えいえんに−

土地改良区とは?

1949年に制定せいていされた土地改良法によりできた、農業をいとなむ人たちの組織そしきです。
じょう(田んぼ)整備せいびをしたり、農業用のため池や、水路など様々さまざま土地改良施設とちかいりょうしせつ維持いじや管理をしています。

土地改良区の仕事とは?

  • すいげんから引いた水をお米を作る農家の田んぼに届けます。
  • いたんだ水路を修理しゅうりしたり、古くなった水路を新しい水路に直します。
  • 見沼代用水路沿線みぬまだいようすいろえんせん草刈くさかり及び不法投棄物ふほうとうきぶつ通水つうすい支障ししょうとなる土砂どしゃやゴミの撤去てっきょなども行っています

ぬまだいようすい歴史れきし

名前の由来

約1,200haにおよぶ見沼溜井みぬまためい干拓かんたくするにあたり、新たなすいげんを利根川に求めたことにより、見沼みぬまわる用水としてぬまだいようすいとなりました。

ぬまだいようすいの始まり

  • 1629年に伊奈いな忠治ただはるによりはっちょうづつみきずかれ、約1,200haの見沼みぬま溜井ためいが完成しました。
    見沼溜井ためいの水は下流の約5,000haの田んぼのすいげんとして使用されました。
  • 1727年(享保きょうほう12年)にざわためながおうによりぬまだいようすいかいさくされ、あわせてしばかわられ、約1,200haの新田開発しんでんかいはつ用水ようすい沿線えんせん沼地ぬまちが田んぼになりました。
  • 八丁はっちょうづつみが作られる前

  • 八丁はっちょうづつみが作られた後

ぬまだいようすい役割やくわり

ぬまだいようすいはお米を作るための水を流す農業用水路です。
だい、お米はお金の代わりとして利用されていました。
当時のの人口は1600年頃ねんごろの約13万人から1700年頃ねんごろには約100万人までえ、ばくしょくりょうそく財政難ざいせいなんという問題をかかえていたことから、 新田開発を行いお米を作る田んぼをやす必要があったのです。
ぬまだいようすいは、ぬまための水を使い米作りをしていた田んぼと、ぬまため干拓かんたくして新たに開発された田んぼで使用する水を供給きょうきゅうするために作られました。
また、ぬまつうせんぼりられたことでぬまだいようすいしゅううんにも利用され、ねんまいや野菜などを運び、からりょうや日用品などを運びました。しゅううんは昭和6年まで約200年続けられました。

ぬまだいようすいかいさく

工事は1727年8月から翌年よくとし2月に行われました。60kmにおよぶ水路のかいさく工事こうじは、すでにあった星川を利用したり、台地のすそを利用したりと、短い時間で工事ができるよう工夫され、6ヶ月という短期間で完成しました。

ぬまだいようすいじゅうよう構造物こうぞうぶつ

じゅうろくけんぜきはちけんぜき

星川から久喜市くきし(きゅうしょうまち)で分かれ、ぬまだいようすいの入口にはちけんぜき、星川にじゅうろくけんぜきが作られ用水排水ようすいはいすいの調節を行っています。
用水が必要な時にはじゅうろくけんぜきを閉じてはちけんぜきを開き、用水のいらない時は反対にはちけんぜきを閉じてじゅうろくけんぜきを開き星川に水を流しています。
せきの横の長さがそれぞれ八間はちけん(約14.5m)、じゅうろくけん(約29m)であったためこの名前が付けられています。

柴山伏越しばやまふせこし

伏越ふせこしとは、川の下に水路を作り横断おうだんさせる施設しせつのことです。ぬまだいようすい元荒川もとあらかわが交差する白岡市しらおかしはすさかいにあり、元荒川もとあらかわの下をぬまだいようすいがくぐっています。
出来たときは水を2つに分けて伏越ふせこしかけで通水するようになっていましたが、かけ元荒川もとあらかわの流れの邪魔じゃまになることから30年後に撤去てっきょされました。

かわらぶきかけ

かけとは、川の上に水路を作り横断おうだんさせる施設しせつのことです。
ぬまだいようすいあやがわが交差するはすあげさかいにあり、あやがわの上をぬまだいようすいが通っていました。現在げんざい伏越ふせこしとなっています。

ぬまつうせんぼり

ぬまだいようすいが完成した3年後、しばかわひがしべり西にしべり用水の間にさいたま市(きゅううら)のはっちょうづつみにそって作られました。
通船堀つうせんぼりは、用水路としばかわの間に二つの水門を作り水の高さを調節してふねを通す仕組みになっていて、閘門式こうもんしきうんと呼ばれています。用水路としばかわの水の高さは約3mのちがいがあります。

ぬまだいようすいすいげん

すいげんについて

ぬまだいようすいは利根川から取水しています。行田市にある大堰おおぜきで利根川の流れをせきめ、そこから決められた量を守り取水しています。
利根川のすいげん群馬県ぐんまけん新潟県にいがたけんさかいにある大水上山おおみなかみやま雪渓せっけいです。

ぬまだいようすいの水を使う範囲はんい

ぬまだいようすいの水を利用している地区は、利根川から埼玉県さいたまけん東京都とうきょうとさかいさいたまけんほくとうから南部のいき)で、16市2町に関係する南北約60km・東西約20kmになります。

ざわためながおう

きょうほう12年(1727)から13年(1728)にかけて
紀州流きしゅうりゅう』の達人ざわためながおうぬまに代わる用水として、わずか半年でぬまだいようすいを完成。

徳川吉宗とくがわよしむね八代将軍はちだいしょうぐんになったきょうほう元年(1716年)はばく財政ざいせい非常ひじょうに悪く、その立て直しのため、質素しっそ倹約けんやくを第一番としてしょみん徹底てっていさせ、幕府ばくふ収入増加しゅうにゅうぞうかための新田開発をびかけました。 これは『享保きょうほう改革かいかく』といわれ、特に新田開発に力を入れたことから、吉宗よしむね米将軍こめしょうぐんともばれています。
積極的に改革かいかくを進める上で、吉宗よしむね紀伊きいげん和歌山県わかやまけん藩主はんしゅだった時、新田開発に手柄てがらのあった紀州藩士きしゅうはんし 井澤いざわためながおう享保きょうほう8年(1723年)に紀伊きいはんより連れてきて幕府の役人としました。
為永ためながは「見沼みぬまため」1200町歩ちょうぶ干拓かんたくし、この沼の代わりとなる用水を利根川に求め、約60kmの「ぬまだいようすい」をかいさくし、あわせて沿線えんせんの新田開発も行いました。
利根川にもうけられた「元圦もといり」は、当時としては例を見ない大規模だいきぼなもので、久喜市くきし菖蒲町しょうぶちょう地内ちないには「はちけんぜき」・「十六間堰じゅうろくけんぜき」、元荒川もとあらかわと交差する白岡市地内には「柴山伏越しばやまふせこし」、綾瀬川あやせがわと交差する上尾市地内あげおしちないには 「瓦葺掛渡井かわらぶきかけとい」を築造ちくぞうしました。これらの主要構造物しゅようこうぞうぶつには、随所ずいしょ為永ためながの工夫と技術ぎじゅつしめされており全国的にも著名ちょめいなものとなっています。
現代げんだいのように進んだ技術ぎじゅつ土木機械どぼくきかいのない時代にあって、為永ためなが水盛器みずもりきという簡単かんたんな道具と竹竿等たけざおなどで、夜は提灯 ちょうちんで土地の高低をはかったといわれていますが、その結果は極めて正確せいかくで、その後の通水で実証されています。
この事業は、享保きょうほう12年(1727)8月に着工し、半年後のよく13年(1728)春には完成しました。3月には「ぬましんでんわり」を行い直ちに通水していることから正に驚異的きょういてきな早さで進められたことになります。為永の生涯しょうがいで最大の事業であって、かつ代表的な土木事業どぼくじぎょうとなりました。

続いて為永ためながは、水路沿線すいろえんせんぬまなどを開発し、ぬまだいようすいより分派ぶんぱする黒沼くろぬま笠原沼用水かさはらぬまようすい天久保用水あまくぼようすい高沼用水こうぬまようすいなど諸用水路しょようすいろ新削しんさくし、 ここに、かんがい面積約14,000haという全国屈指ぜんこくくっし規模きぼであるぬまだいようすいが生まれました。

昭和43年(1968年)ぬまだいようすい元圦もといり」の東側に、水資源公団みずしげんこうだんげん独立行政法人どくりつぎょうせいほうじん水資源機構みずしげんきこう)による利根導水路とねどうすいろ建設事業けんせつじぎょうとして利根とね大堰おおぜきが完成し、埼玉・群馬両県下の農業用水が合口ごうぐちされました。
これにより、享保きょうほう年間ねんかん以来いらい240年にわたり取水されていた「元圦もといり」は廃止はいしされましたが、ざわためながおうの選んだこの取水地点が現代科学げんだいかがくによる実験等の結果からも最適地さいてきちとして裏付うらづけされたこととなり、 その着眼ちゃくがん技術ぎじゅつがいかに素晴すばらしく、構想こうそうが広大であったかが、あらためて思い起こされます。

現在げんざいぬまだいようすいは、土地改良区の関係者はもとより地域ちいき財産ざいさんとして愛され、有効ゆうこうに活用されています。

生い立ちと活動

為永ためながは、井澤いざわ弥太夫やたゆう為継ためつぐの子として溝口村みぞぐちむら(げん:和歌山県海南市わかやまけんかいなんし)で生まれました。東京都とうきょうと千代田区ちよだく麹町こうじまち心法寺しんぽうじ墓石ぼせき海南市かいなんし野上新のかみしん井澤家いざわけ墓地ぼちにある墓碑 ぼひには「げんぶん3年(1738)3月1日ぼつ行年ぎょうねん76さい」とあります。[参考さんこう江戸幕府えどばくふ編集へんしゅうした「かんせい重修ちょうしゅう諸家譜しょかふ」では、85さいとも記載きさいされています。]
おさころから算数が得意とくいで、特に土木技術どぼくぎじゅつのその天才を発揮はっきしたことから、村人達は村界にある黒沢山くろさわやま天狗てんぐから秘術ひじゅつさずかったものとうわさし、その技量ぎりょう称賛しょうさんしたと伝えられています。元禄げんろく三年には、紀州藩きしゅうはん徳川とくがわ光貞みつさだ二代藩主にだいはんしゅ)に登用されて会計関係を担当たんとうする勘定方かんじょうかた となっています。
吉宗よしむねが、将軍職しょうぐんしょく就任しゅうにんした後の享保きょうほう7年9月、為永ためなが幕府ばくふし出され、享保きょうほう16年(1731)には勘定吟味役かんじょうぎんみやく昇進しょうしんし、その後老齢ろうれいのため元文げんぶん2年(1737)にしょく退しりぞき、よく3年(1738)3月1日に病により永眠えいみん心法寺しんぽうじほうむられました。

井澤祠いざわほこら

享保きょうほう12年(1727)ぬまだいようすいの開発にあたり、ざわためながおう元圦畔もといりほとりなど水路すいろ沿線えんせん数カ所すうかしょ弁財天べんざいてん設置せっちし、灯明料とうみょうりょう寄進きしんして用水の潤沢じゅんたく平安へいあん祈念きねんしました。 元文げんぶん3年(1738)3月1日にぼっすると、関係農民は、その功績こうせき永遠えいえんに伝えるため、元圦畔もといりほとり為永ためながを祭る井澤祠いざわほこら建設けんせつし、文政ぶんせい12年(1829)石造いしづくり再建さいけんしました。

樋守弁財天ひもりべんざいてん元圦弁天もといりべんてん

大正たいしょう4年(1915)年11月為永ためながじゅう5位ごい追贈ついぞうされ、同6年為永ためなが180年祭 贈位報告追慕祭さい ぞういほうこくついぼさいさいし、樋守弁財天ひもりべんざいてん石造いしづくり再建さいけんしました。

常福寺じょうふくじ墓石ぼせき

明和めいわ4年(1767)為永ためなが三十年祭さんじゅうねんさいにあたり、白岡市しらおかし柴山しばやま柴山伏越しばやまふせこしのほとりの常福寺じょうふくじに、水路沿線すいろえんせんの農民が為永ためなが功績こうせき感謝かんしゃして、千代田区ちよだく麹町こうじまち心法寺しんぽうじから分骨ぶんこつして墓石ぼせきを建てました。

千代田区ちよだく麹町こうじまち心法寺しんぽうじ墓石ぼせき

ぬまだいようすい普通水利組合ふつうすいりくみあいげんぬまだいようすい土地改良区とちかいりょうく)では、昭和12年に、心法寺しんぽうじ墓所ぼしょ改修かいしゅうし、石灯籠いしとうろう及び玉垣たまがき寄進きしんしました。

世界かんがい施設遺産しせついさん

令和元年9月4日にインドネシアのバリで開催かいさいされた「国際こくさいかんがい排水委員会はいすいいいんかい(ICID)」国際執行理事会こくさいしっこうりじかいにおいて、ぬまだいようすい土地改良区とちかいりょうく申請しんせいした「ぬまだいようすい」が「世界かんがい施設遺産しせついさん」として登録されました。

世界かんがい施設遺産しせついさんとは

世界かんがい施設遺産しせついさん(World Heritage Irrigation Structures)は、かんがいの歴史れきし発展はってんを明らかにし、理解醸成りかいじょうせいを図るとともに、かんがい施設しせつ適切てきせつ保全ほぜんするために、歴史的れきしてきなかんがい施設しせつ国際こくさいかんがい排水委員会はいすいいいんかい(ICID)が認定にんてい・登録する制度せいどのことです。

世界かんがい施設遺産:農林水産省
(農林水産省特設ページ)

記念碑きねんひ

  • 令和2年8月に、久喜市くきししょうちょう上大崎かみおおさきの十六間堰畔じゅうろくけんぜきほとりにある星川弁天社地内ほしかわべんてんしゃちないぬまだいようすいの世界かんがい施設遺産登録しせついさんとうろくを記念した記念碑きねんひ建立こんりゅうしました。

  • 石碑せきひ裏面うらめんには、ぬまだいようすい歴史れきしについての碑文ひぶんきざまれています。

石標せきひょう

見沼代用水みぬまだいようすい主要しゅよう構造物こうぞうぶつ付近ふきん石標せきひょうもうけました。
この石標せきひょうは、かつて瓦葺掛渡井かわらぶきかけといの土台として使用された石材を再利用さいりよう作製さくせいされたものです。

設置場所せっちばしょ
もといり 行田市下中条地内ぎょうだししもちゅうじょうちない
柴山伏越ふばやまふせごし 白岡市柴山地内しらおかししばやまちない
瓦葺伏越かわらぶきふせごし 蓮田市蓮田地内はすだしはすだちない
見沼自然公園脇みぬましぜんこうえんわき さいたま市緑区南部領辻地内しみどりくなんぶりょうつじちない
原形保全区間げんけいほぜんくかん さいたま市緑区南部領辻地内しみどりくなんぶりょうつじちない
木崎橋付近きざきばしふきん さいたま市浦和区三崎地内しうらわくみさきちない
ぬまつうせんぼり西にしべり さいたま市緑区大間木地内しみどりくおおまぎちない

展示室のご案内

てんしつのご案内

当土地改良区では、事務所じむしょ入口横にあるてんしつで見沼代用水はどうやってできたのか、どこを流れ、どんな機能きのうがあるのかを分かりやすく説明したパネル・資料しりょう展示てんじしており、どなたでも自由に見学けんがくいただけます。 資料しりょうしい・質問しつもんしたい等ありましたら、窓口まどぐち職員しょくいんにお声がけください。

 
 
てんしつ
見学料けんがくりょう 無料むりょう
見学時間けんがくじかん 月~金 9:00~16:30
休所日きゅうしょび 土日祝、年末年始ねんまつねんし
団体利用だんたいりよう 事前じぜんに電話またはHPからお問い合わせください

展示資料てんじしりょうは一部をのぞき、無償むしょうでおわたししています。